よろず屋☆蓮さんのブログ

己の己による己のための占い&ヨガ

六十干支は、なぜ甲子始まりなの?

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pixabay

 

連日、台風19号の被害に遭われた方々の映像が毎日テレビで放送されているのを見て、胸が苦しくなりますね。
なので、少ないですが、貯まったナナコポイントで募金しました。
今は、わざわざ銀行に行かなくてもスマホで送金できたり、貯めたポイントを募金にできるので、便利ですね。
 

今回の台風19号、これまでの「台風の常識」を覆しました。今の時代、台風だけじゃなく、環境、政治や経済、そして働き方や生き方にも大きな変化が、想像をはるかに超えたスピードで、訪れていることを痛切に感じます。

 

そんな中、台風とは全く関係ありませんが

西洋では、水スタートなのに干支暦は、なぜ木性の甲子からスタートするのか?こんなつぶやきを目にしました。

木性は、太陽が昇る東を意味しているからじゃん?と思っていたけど
いや、待てよ・・・・(゚^ ゚)ウ〜ン・・・・・ぽくぽくぽく

子は水!木性からスタートなら、なんで「甲寅」じゃないんだろうか。


   

  

そこで、「東洋の予知学」に何か手がかりがないか、調べてみました。
ちょうど高尾氏が、仏教と予知学というテーマで、九星術と弘法大師について語られている部分なんですが、このような文章がありました。



「東洋の予知学」高尾義政 

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p194

ここに1つの悲劇があるのです。弘法大師が持ち帰った九星術ではありますが、既に完成されたものを持ち帰ったために、なぜ九つの星を使うのかと言う九星術の作成方法が伝わらなかったと言うことです。
これは六十種類の干支も同じことで、わが国には九星術であれ、干支であれ、その作り方は伝わっていないのです。ここに理由もわからず、ありがたくおし戴いて活用している悲しさを残す結果となったのです。それゆえにわが国日本は、原理原則を踏まえない我流の占いの宝庫となったのであります。
原理原則が判然としないまま、それでいて活用の範囲が広くなって行くわけですから、わが国における予知学の研究は、ある意味で無手勝流のやり方が行われたわけです。

 

そっかー。作り方は伝わっていないのか残念。ん?待てよ「原理原則が判然としないまま・・・」??どこかで似たような事を言っている人がいたぞ。誰だっけ?
思い出しました。この本です!!

 

「四柱推命の謎と真実」波木星龍

 

四柱推命の謎と真実

四柱推命の謎と真実

 

 

p19

なぜ、このように様々な判断方法が存在しているのかと言うと、四柱推命にはいくつかの致命的な弱点が存在しているからです。その1つは、単純な観方を用いる”やさしい四柱推命”の場合、おおまかな吉凶は理解できても具体的事象は読み取りにくいからです。さらに上級者向けとも言える”難しい四柱推命”でもその点は解消されず、吉凶と人生の大要は判断出来ても、具体的事象については、やさしい観方と大きな違いはなく、実占面での”統一基準を作れないでいる”のが実情です。

もう一つの問題は、世間一般の捉え方として四柱推命は論理的合理的な占術であると思われていますが、実際には肝心な部分が曖昧で、理論的に判然とせず、矛盾した解釈や観方がいくつもあって、学習や研究が進めば進むほど、古典的な原書と格闘することが多くなるものです。

 

この本は、友人の勧めで購入し、興味のあるところだけ読んで、そのまま放置してしまっていたのですが、今回、丁寧に読み込んでみると新たな発見がたくさん見つかり、大興奮でした。

 

まずわかったこと

今から3500年以上前の殷王朝の王さまの名前には、出生日の「十干」がつけられた。

これは、個々の出生日に出現する太陽には、それぞれの「太陽神霊」が備わっていると考えられ、その太陽神霊を姓名に宿そうという意図があったらしい。

また、十干は太陽神、十二支は、月の霊として扱われ、遺跡からは、原初「六十干支表」見つかっていて、この時代に作られたのは間違いなさそうです。


そして、推命学で用いられている「日干=我」は、この時代に作られ、その後、徐子平が現れるまでの二千年間(周王朝〜唐王朝)は、生年干支主体で占われていたそうです。


実はまだまだわかったことがたくさんあるんだよ〜〜〜
でもこのままだと、なかなか本題に行き着かないので、そろそろ今回のテーマ「なんで六十干支は、甲寅スタートじゃなく甲子始まりなの?」を始めたいと思います。

ちなみに中国王朝の流れですが、覚える必要はないでしょうが
↓↓↓こちらがとてもわかりやすいです。


中国王朝の覚え歌(アルプス一万尺の替え歌)



殷王朝の暦は「寅」(立春)の新月を「正月(一月)と見立てていたのではありません。北斗七星が真北を指す「子」(冬至)の新月を「正月(一月)」と見立てていたのです。殷墟から出現した“六十干支表”のスタートは「甲寅」ではなく「甲子」だったのです。暦法としてのスタートは、当然と言えば当然かもしれませんが、一年中でもっとも土圭(とけい)の影が長くなる「冬至」の「新月」を基準とし、天文観察を行う昏(午後八時)に、北斗七星の斗柄が指し示す「子」(真北方位)こそ、暦日の初日にふさわしいと考えたに違いありません。


ところが、なぜか殷王朝の後にくる夏王朝からは、甲寅スタートの暦になるんです。
そして、戦国時代〜秦の始皇帝の時代では、「水」の「癸亥」から始まっていた「顓頊暦」になり、漢王朝の武帝さんは、夏王朝の夏暦(甲寅スタート)を尊敬していたそうで、ここから甲寅スタートの「太初暦」に改正されたようなんです。

ヘェ〜〜〜〜
暦も時代によって色々なんですね。それはそうと、殷(商)王朝ってすごくないですか?だって、3500年も前に「甲子スタートの六十干支が完成しているんですよ。しかも我々が占術で今でも使っている(日干支=我)がすでにこの時代に作られてる。
これまで、十干は精神で、十二支は現実とか、六十干支はこういうものだと当たり前のように使ってきたけど、十干は太陽と関係が深く、十二支は月と関係があったということとかがわかって、すごく勉強になりました。

ところで、十二支の「子」スタートはわかったけど、なんで甲木スタートなんだろう。私なりに考えたんだけど、十干は、太陽を意味しているから、やっぱり太陽が昇る東、田畑に種を蒔く春だから、甲木になったんじゃ?って思うのでした。



十干、十二支とか難しいのは、ちょっとという方は、↓↓↓こちらからどうぞ

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